海潮音

春日霞みて、葦蘆のさゞめくが如、笑みわたれ。
磯浜かけて風騒ぎ波おとなふがごと、泣けよ。


憂鬱なとき、詩のことばが染みわたることがありますよね。
詩全体の内容は頭に入ってこなくとも、その一句だけが心に響く、なんてこと。

それだけです。
映画ガルパンに触発されて買ったこの本ですが、良いですよ。安いし。象徴詩はだいたいよくわかりませんが。

四国!

今度はけいおん風……?

アニオタ的教養しか無いのでこういうことを書きがちですが、漢籍を引用した古人も変わりますまい。

18きっぷの残り一日分の消費でどこに行くかを悩んだ末、日帰りで四国(といっても讃岐だけ)に行って参りました。

雑に写真を貼っていこうと思うので、重くなることを忌避しない方は続きをお読みください。

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飯田線に乗った。

なんかのんのんびよりのサブタイみたいでよくないですか???

……はい。
旅行記事です。ほんとうは夏の間に由良に行ったり大洗に行ったり印刷博物館に行ったりもしていたのですが*1、それについては書く機会を失っていましたね。


しばらく実家にいたのですが、実家にいるとそれなりに健康的な生活が送れるのはいいとしても、進捗がほとんど生まれなくてあれなので京都に戻ってきました。

で、例の如く18きっぷを使うわけですが、今回は飯田線に乗るという趣向にしました。

どうせ飯田線に乗るのなら、一本で乗り通したいですよね、というわけで、頑張って朝5時過ぎに家をでて中央線を西し、上諏訪の駅に降りたちます。
諏訪には御柱祭の見物に訪れていたので、4ヶ月ぶりといったところです*2

とはいえ、そんなに時間は無かったので、諏訪の街に出るようなことはできませんでした。
ちょうど駅の中に足湯があったので入ってみようと思いました。中央線も高尾から2時間半ほどずっと同じ電車に座っていて既に疲れ気味だったのです。
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が、タオルなどを持っていないことに気付きました。手を少しひたして「あったかいなぁ」といって終わりました。

飯田線の電車は、乗ってきた中央線の電車がついたときにはもう止まっていました。

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上諏訪9時19分発、豊橋16時16分着の電車です。約7時間ですね。

快適な313系の車両とはいえ、やはりずっと座っているとお尻が痛くなりました(自明)。

飯田あたりまでのうち半分くらいは寝てしまっていました。
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この飯田市街の写真は、「あっ、河岸段丘かな」とか思って撮ったものなのですが、まったく自信がございません。

天竜峡駅を越えると、車窓はいかにも「天竜峡」といった風情になります。
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電車でGo!山陰本線保津峡のあたりを思い出していました。
惜しむらくは左側に座ってしまったことですね。基本的に天竜川は右側(西側)に見え続けていました。

あとは、トンネルに恐らく豊橋からの通し番号が振られていて、あと何個トンネルを越えれば平地に出るのかが分かるのは結構面白かったですね。百個以上だったのが恐ろしかったですが。
もともとは私鉄として開業したということですが、よくこんなところに鉄道を通したな、と思いました。

愛知県の平地になってからは、下校する高校生達が乗ってきて、朝からの時間の経過が感じられました。自分はただ座って窓の外を眺めていただけなのに、高校生が授業をはじめ、終わるだけの時間が過ぎていたのです。

車中の七時間、寝ていた時間と写真を少し撮った時間以外は、ほとんどぼーっとしていました*3
鞄の中には何冊かの本が入っていたのですが、時刻表以外を開くことはありませんでした。

電車の中で、ふと、「これが贅沢だな」という気がしました。
何も生産性のない時間を長時間とれるのです。
これぞ大学生の富、そうではないかと。

……たとえば新幹線の指定席で行くとしましょう。
たしかに席には必ず座れる。目的地にも早く着ける。
でも、割り振られた席に必ず座らないといけない。途中で適当に場所を動いたり、適当に気が向いた駅で降りて遊ぶなんてことは難しい。
そしてその上移動の時間を惜しむように車中で仕事をするビジネスマンなどというのは、どうも悲しい。
そんなことを思っていました。

話は飛ぶようですが、大学改革の話なんかで違和感をもつのは、そのあたりにあるのかな、と。
「教育力」とか言って、授業への出席を義務化したり、評価を厳密にしたり。
大学なんて図書館と出席自由の講義を提供してくれればいいので、あとは全部放っておいてくれと思う訳ですが*4、どうも世間の風潮がそれを許さないようで。
新幹線の指定席に押し込めるような、そんな社会に向かっているのかな、と思ったのです。

それが効率的なのかも知れませんが、どうも納得できないのは、鈍行で碌に予定も立てずに行く旅を好むような者だからなのでしょうか。
そんなことを考えるのも、なにもせずにぼーっと過ごしているからなのかも知れません。

閑話休題
豊橋に着いてしまえばもうこっちのものですよね。
快速米原行に乗って、米原で新快速に乗り換えればすぐ京都です。
下宿に帰って、大変なことになっていないことに安堵し、キラメキJAPAN*5で晩ご飯を食べ、KMC部室に吸い込まれて超人ロックをして帰りました。
こんな時間に日記を書いているのは、超人ロックのせいです、はい。

――以上。

*1:それ以外はほとんど何もしていない。

*2:そういえば、諏訪の市街の道路にはまだ御柱祭の飾りがあるのが車窓から見えました。まだ終わっていないのでしょうか

*3:正確にはその前の中央線の二時間程度も同じようにしていました。

*4:京大くらいはそうしてくれると思っていた。

*5:台湾まぜそばのお店。

はんこ画像生成botのソースコードを公開します

サークルのslackで動かしているはんこをつくるbotです。

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こんな感じに受け取った文字列をはんこ画像にして返します。

たまにこのブログ上でも登場していたのですが、折角なのでソースを公開しておきます。
gist.github.com

全体は2つのrubyスクリプトで構成されています。
はんこ画像を生成するmakehanko.rbとslackと通信して文字列を受け取ったりはんこ画像を投稿したりするhanyu_hanko.rbです。
つまり、makehanko.rbだけで独立したはんこ画像生成機として使うことができます。

makehanko.rbの使い方

画像に文字をいれるためにrmagickというライブラリ(gem)に依存しています。
これはimagemagickというツールをrubyから扱うためのラッパーのようなものなので、まずimagemagickのインストールが必要です。
私が動かしている環境(debian 8)ではaptitudeでわりとさらっとできた気がしますが、環境によってはこれが結構面倒だったような気がします。

次にrmagickというgemを入れるのですが、私はbundlerという支援ソフトを使っています。
bundlerの使い方は適当に調べて下さい。

最後に、同じ階層にfontsというディレクトリを作って、ここにipaexm_tate.ttfを突っ込んで……と言おうと思ったのですが、このフォント(IPAex明朝を縦書き字形に変更したフォントです)、フォント名からIPAを消していないのでライセンス上公開できないんですよね……
作り方は
旧字フォントをつくった - すずしめにっき
で触れているので、興味のあるかたは作ってみて下さい。
作るのが面倒というかたは、適当なフリーフォントをfonts/hoge.ttfにいれてhoge.ttfを使うようにコードを修正して下さい。
(気が向いたら再配布できるように名称を変えたフォントをアップロードします……)

準備ができたら、

$ bundle exec ruby makehanko.rb 任意の文字列

で使うことができます。

既知のバグとして円記号(バックスラッシュ)が空白になってしまうことがあります。
どうもrmagickのエスケープ文字の絡みなのですが、よくわかりません。

hanyu_hanko.rbの使い方

このスクリプトがやることは、slackの投稿を監視し、正規表現に合う文字列が投稿されると、そこから抽出した文字列を引数としてmakehanko.rbを起動、生成した画像をgyazoにアップロードしてそのURLをslackに投稿、です。
slackのAPIで画像を直接アップロードすることもできるのですが、ユーザー名・アイコンを変更することができなくてbotらしくならないので、外部サービスにアップロードします。
Gyazoスクリーンショットを共有するための便利サービスですが、APIが公開されていて画像を手軽にアップロードできるのでアップローダー代わりに使っています。
ただ本来のスクショ機能も便利なので最近依存しています。
ちなみに私はNota.Incでバイトをしていないので回し者ではないです。

さて、このスクリプトは"slack"と"gyazo"というgemに依存しているのでまずはそれをbundlerで入れます。
また、環境変数でSlackとGyazoのトークンを指定します。名前はソースを見て下さい(外部に公開しないならばソースを編集して直書きしても構いません)。
それと/home/hoge/と書いているあたりを実際にmakehanko.rbを置いているディレクトリにあわせて修正して下さい。

あとは普通に

$ bundle exec ruby hanyu_hanko.rb

で起動するだけです。
なお、もとのhanyu.rbには他にもいろいろ機能があるのですが、はんこ機能だけ抜き出したのでhanyu_hanko.rbという名前になっています。

これを永続的に動かすためには、もちろん常時起動しているコンピュータが必要になります。
私の場合はサークルのサーバーで動かしていますが、自宅のPCが常時起動している場合や、自宅サーバーがある場合はそれで良いでしょう。
無い場合は、さくらあたりで賃貸サーバーなりVPSを借りるなり、いまどき流行りのAmazonなんとかとかへろく(?)とかと契約すればいいのかもしれません(よくわかりません)。
もしくは京大マイコンクラブに入会すればよいでしょう。

サーバーからログアウトしても動かし続けるためには、tmuxを使うのがお手軽です(tmux上で起動→Ctrl+Dで抜けるだけ)。
私も最初の内はそうしていたのですが、このbotは結構な頻度で落ちるので、落ちる度にいちいち起動するのは面倒でした。
今はnode.jsのforeverというツールを使っています。こいつを使うと落ちても勝手に再起動してくれる(?)ので便利です。
foreverはnode.jsのパッケージなので、

  1. nvmを入れる。
  2. nvmでnode.jsを入れる。
  3. npmでforeverを入れる。

という手順になります。
あとは

$ forever start -c bundle exec ruby hanyu_hanko.rb

です。

その他

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脆弱性には注意しましょう*1

これはSlackのbotとして動かしていますが、Twitterbotなんかも似たような感じで簡単に作れます。
ただ、不特定多数の入力を受け付けるようなものを作るのは怖かったのでSlack botしか作っていません。
正解でしたね……

セキュリティには気をつけて、みなさん楽しいBot生活を!

*1:当時はmakehanko.rbを起動するところを普通にshellを経由して呼び出していたので、バッククオートで囲んだ文字列をわたすと実行可能になっていました。所謂「任意のコマンドが実行可能になる脆弱性」ですね。そもそもシェルでバッククオートを使ったらコマンドを実行した結果を代入できるなんて知らなかったのですね。こんな小規模なプログラムでそんな恐ろしいことになるんだと驚いて、セキュリティの意識が高まる一件でした。ほんとセキュアプログラミングは大事です。

愛と力と偽善と献身と

「持っている力を使わないのは公正か?」

               ――クラリオン

癩者のベッドに寝て、恋人の閨のぬくもりと同じ心の暖かみで患者を暖める――そこまで思いきれるかどうか、が最後の決着だと僕は思っている。

・かくも世界はどうしようもなく理不尽に襲いかかる訳であって、そのなかでどうやって生きていくかという問題であって、この前再び読んだ『NHKにようこそ!』の山崎君はそこにひとつの答えを与えていた訳なのですが、さてどうしたものなのでしょうね、という話でございます。

・目に見える人の苦しみを除くために大きな力なり金なりを求めるというのはわかりやすく、夢想的で、無力なのです。

・くらりんはかわいいです。

・人はそれこそ生まれながらであったり育ちの環境であったり、自分の行いであったり偶然であったりからそれぞれの能力を得ている訳であります。他者のそれを羨むのはかってなのですが、不毛です。

・福音ちゃんは純朴な天使でした。天使とは恐怖の象徴でもありましょう。

・本当は『国体論及び純正社会主義』の麺麭屑の一節も引用しようと思ったのですが、みつけられなかったのでやめました。

・私は「偽善」が嫌いです。けれど何が偽善なのかわかりません。

・駅前で募金を呼びかけている大学生などを見ると、それは違う、そういう気がしてならないのです。――「能力」の話はここで繫がっています。

・巫女さん巫女さん言っているのは『シャングリラ』の人柱の少女だとか『山椒大夫』の安寿姫だとかに見た「献身」を純化させてしまっているという部分が大きいです。けれど献身ってなんでしょう? 死ぬことでしょうか?

・無償の愛とはいいますが、それは人間に可能でしょうか? それとも神になることによって可能となるのでしょうか?

・献身とは性的倒錯とかわらないのではないですか。

・結局は自分のその力を思い思いに使うべきなのでしょう。たぶん自分が納得することが大事なのです。


<以下追記>

・我々は「掠奪」しているのでしょうか。

・さて例えばここにある一枚百円のチョコレートはアフリカなりのどこかで児童労働の成果としてできたものなのかもしれません。
以前テレビ番組でカカオ農家で働く子供達にチョコレートをもっていって食べさせるシーンを見た気がしますが、これをあなたは肯定しますか、それとも否定しますか。

・そこには笑顔がありましょう。けれど根本的にかれらから掠奪しているからこそかれらはチョコレートを食べたことすらないのでしょう。

・格差の是正だとか言うとき、さて私ひとりはそれに耐えられるのでしょうか。世界の富を全部足して一人一人に平等に割り振っていったとき、そこにあるのは今のような生活ではないでしょう。奴隷の上にローマの民主制が成り立っていたように、搾取の上に我々の生活があるのは部分的な真実でしょう。

・とはいっても、そう考えたとき、我々はどうすればよいのでしょうか。どうすれば道徳に悖らないのでしょうか? そんなことが可能ですか?

・でも、どうしても欺瞞的にしかみえないのです。ユニセフの「チャイルドスポンサーシップ」のCMなど、見てはとても気分が悪くなるのです。

<以上追記>

土井晩翠「金華山より太平洋を望みて」の紹介

土井晩翠*1の詩の紹介です。
最近、世界各地でいろいろな事件が起きていますが、その報を聞く度になにかとこの詩の一節が心に浮かぶのです。
ですが、どうもこの詩はあまり有名ではないようで(長いですしね)、青空文庫にもなかったので頑張って入力してみました。

元にした本は岩波文庫の『晩翠詩抄』です。興味が湧いたら読んでみると良いと思います*2

この詩は『曙光』という詩集に収められていたもので、遠い欧洲で繰り広げられる第一次大戦の惨禍を歌っています。

金華山より太平洋を望みて


   世界大戦争の初まりし大正三年の十一月一日中島、林の
   両教授及び科学部員二十余人と共に金華山頂にのぼりて


     一


太平洋の秋の波を見おろす一千五百尺、
金華霊山(きんくわれいざん)頂の風わが思を遠く吹く。


「王城去りて一千里、王化洽き東奥の
山黄金(わうごん)を奉る」史上の声は遠けれど、
隔つる波の荒うして名山未だ人界に
広く知られず、神仙の府と想像の空にのみ、
たゞ雲霓(うんげい)の明滅を盲(めしひ)の思ふ如くして
此日此秋此年にわれ霊境の秘に参(さん)ず。


蓊鬱たりや千年の古木喬松枝しげく、
三峡の夜にあらなくに、哀猿耳を貫きて
森より鹿の立つところ時に潺湲(せんくわん)の水わたり、
喘ぎて上る羊腸の險路つくせば忽として
眸にうつる渺々の水か鏡か太平洋。


あゝ大(おほい)なる太平洋、
干潮満潮互いに月球の呼吸につれ、
大宇宙の荘厳の曲の一律洋々の
波浪と成りて帝国の岸を洗へる二千歳、
不死の仙郷、秦皇の夢見し処はたこゝか、
時劫の波は永く巻き、黄金国の名に酔ひて
西の海客潮分けしその春秋も遠ざかる。


さなり春秋遠ざかり時劫の波は捲きされば、
知は大塊のはてを窮め理は幻楼を砕きさりて
三山六驁(さんざんろくごう)跡なきもおほいなる哉太平洋。


赤道帯の南北(みなみきた)みどりの波の幾千里、
靺鞨の岸、黒竜の水入る処、寒潮の
烟に月の眠る処、貿易風の吹きあふる
暖潮に魚の飛ぶ処、時を同じく寒熱の
季節の変を幾何か巨洋の浪は眺むるや。


     二


日出づる国の東奥のこゝ今金華霊山の
天は正しく秋なかば、松の翠も満山の
紅葉(もみぢ)の栄も一斉に皆白帝の夜を語る。


青螺幾百、一湾の波しづかなる千松島
向ふ牡鹿の半島の山遮りて見え分かず、
こなた近くの群島の蔭、人は曰ふ、月が浦、
一葉むかし南欧の都をさしし門出(かどで)の地、
孤雲幾片(こうんいくへん)悠々の空に泛ぶを望みしや、
其地其波其雲はむかし乍らの秋にして。


あゝ襟正(えりただ)す粛清の秋の山また秋の海、
長く嘯き天梯を攀づるが如く恍として
大自然のふところに休らふものは我か人か、
主観客観混じとけて一切言句(いっさいごんく)の領を去り
塵骸しばし太清の秋の光に涵さるゝ。


     三


さもあらばあれ空間(くうかん)の薄膜(うすまく)裂かば夕陽の
落行く天の遠きあなた欧の中原(ちゅうげん)戦雲(せんうん)の
渦巻きわたる悽愴の姿、日月(じつげつ)また泣かむ。


痛ましい哉百年の禍永く伏す処、
欧の東南ボスニヤの雲蒸(む)す夏の六月の
空に運命の詛(のろひ)の手放ちし丸の響より、
西に東に大陸の表は修羅の市となり
天上はたまた轟雷を飛ばす数群の大怪鳥(けてう)、
海上ひとしく鋼鉄の百の妖鯨火を吐けり。
リエージ、ナミユル陥りてチユウトンの族二百万、
颶風のごとく霹靂を地上に駆りてあれ狂ひ、
ミユーズ、オアーズ、エーンヌの流れのほとり聯合の
軍(ぐん)大波の打つごとく、東方更にガリシヤに
スラブの強兵数百万、数も伯仲独墺の
大軍ひとしく雄叫びて進退怒潮に似ると聞く。


江流秋に咽ぶ時水は暗紅の悲か、
落月雲より覘く時呻吟の声たえ/\゛か
北地或は寒早く飛雷天地を巻く処
殺気大荒に漲りて砲烟こほりて散らざるか。


あゝ黄金の巴里の首府、満場綺羅の粧は
今悉く憂愁の色に包まれ文芸の
花も色なくうち枯れて只驚惶の影ならむ、
ノートルダムの聖塔は無惨の砲に傷つきぬ、
アンワリイドの墳の中百年の昔列国を
敵に運命試みし英霊何の夢結ぶ。
火山砕けて降る如き巨砲の猛威鉄塞を
微塵となしてベルギイの仮の都をつんざきぬ。
海峡のあなた大川の流れを帯びて儼として
豪富に誇るアルビヨンの大都も秋を感ずるや、
リンデン樹下の逍遙も今は見はてぬ夢のあと。


     四


遙かに思ふかんばしき「地上の星」の毒汁に
枯死する如く歴代の精を集めて培ひし
文化の華は戦乱のあらし忽ち吹き砕き、
秋万頃の豊かなる畑は屍体の収穫か。
天の光明共に受くる無数のやから「民族」と
「国」の名のため仇なくて仇と互に攻めにじり
炎々の火に白蠟の熔くるが如く消去るか。


榴散弾の雨の下、影も留めず砕け散り、
或は千仞蒼溟の底に白骨漂(さら)し去り、
或は利剣の錆となり或は星泣き月むせぶ
夜半に焼かれて青燐の寒きを残す牲(にへ)幾万、
中に紅顔の春の盛さうび恥じらふ色あらむ、
生立ち行かば一世の光たるべき導きも、
織らば錦繍の筆のあや、染めなば虹霓の影のにほひ、
或は学海底深く潜める真珠探る身も。


其兵乱のくるほひの魔界の暗に似る処、
泥土の中ににじらるゝ花の姿を思ひ見よ、
流弾目なく胎の子と共に斃るゝ母あらむ、
東西しらぬ幼子(おさなご)の四肢砕かるゝ惨あらむ。
逃るゝものも一切の宝を宿を失ひて
此厳霜の鞭に泣き此惨烈の飢に泣く。
それはた天か人界の正に受くべき運命か。


     五


運命爾(なんぢ)の神秘なる被衣(かつぎ)誰かは剝ぎとらむ、
東亜の空の運命の明日(あす)亦たれか測り知る。
大戦乱の一波瀾太平洋に伝はりて
渤海の岸青島に今皇軍の進む見る、
孤軍外より援なき要塞程なく倒るべく、
水は濃藍南洋の天、亦光る旗とばむ。
是より東洋日に多事に又甘眠の時あらじ、
轟雷未だ聞かずとも既に閃電の火は映る。


あゝ漫々の太平洋、波は隔つる三千里、
金門峡の星の旗閃く処秋いかに、
西の隣邦人ありて今同文の秘を知るや、
黒竜の水北辰の光は常にやさしきか、
恒河五天の夕ぐれの秋澄みわたるいつ迄ぞ。
機は風雲の変に似て形勢次第に推し移る――
其大局を玲瓏の心の鏡写し得て
経綸の策誤たず、二千余年の帝の邦
わが極東の光明を放て、――亜細亜の暗は足る。


     六


鳴呼霊山の頂の秋逍遙のわかき友、
その紅頰は豊かなる望の春の曙か、
来る東亜の運命を双の肩の上荷ふもの、
「列強の中、一流」の虚名に迷ふこと勿れ。
野人自尊の醜きを自らさらすこと勿れ。
爾の眼(まみ)を光明に開き世界に知を探せ、
黴(かび)と錆(さび)とを心より剣より拭へ、陋習の
朽ちしを棄てよ、新たなる酒は新たの器(き)に注げ。
迷夢久しく妄影の身にまとはるを斬り払へ。
深きに入るは精に因り聖きを知るはたゞ誠、
四海あまねく照すべき偉大の想と芸術と
科学となくば邦国の光栄遂に何の意ぞ。
心霊の力尽くるなくおほいなるもの我にあり、
起ちて世界の文明の潮新たに捲き返し
太平洋の朝波に新たの歌を呼ばしめよ。


     七


鳴呼金華山、千歳の昔に聞きし黄金は
今其胸に空しとも霊境永く霊ありて
無声の教登臨の子にとこしへに施すか。
感謝を受けよ、名山の鎮むる処東海の
此邦永く愛すべく此民永く頼むべし。


秋や漸く深うして今満山のくれなゐの
錦繍やがて雨と散り驚颷(きょうたん)空にうづまきて
万物悉く枯れ果つる其の惨悽の時去らば
春や再び回(かへ)らざらむや。
雲今帰れ碧海の夕、
風今睡れ青天の限(かぎり)、
落つる日五彩の虹霓を染めて
烟波夢むる遠きあなた
大円輪の影を隠すも
金波しづかに曙光に笑みて
光栄の太陽また明日(あす)を照らさむ。

七五調の調べが心地良いです。

実はこの文庫本の最後に載っている解説には、晩翠の詩は内容がないとかわりと酷評されているのですが、それでも、私としてはこういうものも好きです*3

……この歌は、遠い欧洲の戦争を思い浮かべて書かれています。ニュースで伝えられるものから推察したのでしょう。
世の中には戦争を実体験した人が残した文学作品が多数ありますが、戦争など想像の世界の中でしかない私には、このような想起のなかの戦争のほうが、身近に感じられるのかも知れません。
ニュースを聞いて得る、そのままでは言葉にならず消えていく感情が、このような歌の文句が思い浮かぶことで、形として認識しやすくなり、感じるのではないでしょうか。


「あゝ黄金の巴里の首府、満場綺羅の粧は/今悉く憂愁の色に包まれ文芸の/花も色なくうち枯れて只驚惶の影ならむ。」
今や巴里の街は非常事態宣言のなか、武装した警官がそこらじゅうに立って目を光らせているとか聞きます。

他にも世界では、テロ事件であったり、内戦であったり、国同士の諍いであったりと、それでたくさんの人が日々死んでいることが伝えられます。

「機は風雲の変に似て形勢次第に推し移る――/其大局を玲瓏の心の鏡写し得て/経綸の策誤たず、」
この詩もそうですが、第一次世界大戦の間や後、欧洲の悲哀を目の当たりにして、我が国も一歩間違えたら同じ目に遭ってしまうという危機感、そうならないようにしなければならない、という意見を表す文が書かれました。

そしてそういう文章を読むにつけ、その後の第二次大戦、日本帝国の破滅を知るものとしては苦しくなる訳です。
どうしてああなっちゃったんだろう、……「お疲れ様会」ですね。

でも、戦争は当事者でないほうが理性的に見られるものだと思います。
復讐の思いに駆られれば、普段なら見えているはずのものも見えなくなるでしょう。
日本は直接戦争に参加している訳でもなければ、日本でテロ事件が起きている訳でもない、「他人事でいられる」今のようなときこそ、冷静に考えることのできる好機だと思うのです。


…………なんか政治批評みたいなものを書いてしまいました。失敗。
「この詩はいいですよ」と紹介するだけなのに、「なんで良いと思うのだろう」と変に理由を考えてしまったのがいけないですね。
それこそ「ガルパンはいいぞ」みたいにいっておくだけのほうが良いのかも知れません。

――「列強の中、一流」の虚名に迷ふこと勿れ。

*1:一番有名な作品は「荒城の月」だと思います。

*2:どこの本屋にも置いてあるというような本ではありませんが、少なくとも今調べた限りではインターネットでも入手できそうです。

*3:いかにも旧制高校生が好みそうとかも書いてあってまさにその通りという感じ

Airに寄せて

ニコニコでのAirアニメ版一挙放送のタイムシフトを見終えたので。
今の思いの幾分かをあらわすかけらを形として残しておくために。



こうして鍵盤を打って出てきた文字にしてしまうと中性化してしまう気がしたので、さっき喫茶店で書き殴ったものをそのまま載せておきます。
例の如くネタバレしかないので話を知らない方は閉じて下さい。

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ちょっと冷静な離れた目から見ると、よくできたアニメだなぁとか思えることもあるのです。
第二話あたりの時点で気付いたら夏のあの村の空気の中に入り込んでいるのです。
あの、幼い日の、夏休みの空気の中に……


でもそんなのはどうでもいいのです…… 主観的感情で十分です。


涙を流すような物語を読んだ、観たあとにはだいたい情緒不安定になってノートに萬年筆で心情を吐露する癖があるのですが、なにかしら昔読んだものが頭に浮かんで、それでいろいろ考えてしまいます。
さっき思い浮かんだのはマルテの手記の一節でした。正確にはそこに引かれたボードレールの詩。
「そして、爾、主なる神よ、ねがわくは聖寵を授けたもうて、佳き数行の詩を僕の手にならしめたまえ。せめて僕が人間最末の者ではなく、僕の侮蔑する人々よりも更に劣れる者でないことを、僕自身にあかしする態の数行の佳き詩を書かしめたまえ」
前はこれに共感したものでした。
でも、この劇をみたあとには、そんなのは欲張りに過ぎたと思えたのでした。

人間最末であってなにが悪かろうか。
喜びの内に生きていれば十分ではないか。
それ以上、自身が特別であることをどうして願う?
承認の問題かも知れないけれど、自分が特別な能力を持っているからと承認してくれる人のなにが嬉しいか。

そういうことなのではないか、と。
それがいまの思いです。