鴨川
夜の鴨川は怖かった。
河原を自転車で走っていくと、滝の近くを通るたび、ごうごうと響く水音にびっくりする。
こんなにこの川は激しかっただろうか、大きかっただろうか。
そんなことを思ってしまう。
夜の川は漆黒である。向こう岸や橋の上に明かりがあったとしても、その光は川面で反射するだけで、中まで照らすことはない。
闇は、見ているだけで吸い込まれそうで、ただ恐ろしい。
飛び石を探して河川敷を行くと、視線をたまに川の方へと遣るわけで、すると自然と進む道は川寄りになる。暗闇の中、自転車の燈火だけを頼りに進むと、突然目の前に人の座っているベンチが見えてきたり、茂みが現れたりするのであった。そして、いつの間にやら川に近づきすぎていて、落ちる恐怖に晒されるのだ。
* * *
……私は飛び石を探していた。何ヶ月か前にも飛んだ鴨川の飛び石を。
色々あって虚無としか言えない気分になっていたから、むかし慰めを与えてくれたその飛び石を探して、自転車を走らせていたのだった。
* * *
荒神橋のあたりと記憶していて、たしかに荒神橋のあたりに飛び石はあったのだが、少し渡ってみるとそれは違うものだと分かった。
飛び石を渡っていくと、真ん中あたりで近くに舟型の石がある、そんな飛び石を探していた。
いつだったか、その舟のうえでざわめく心を安らげた。
それを繰り返したくなったのだった。
……果たして、それは丸太町橋より更に少し下ったところにあった。単なる記憶違いであった。
私はそれを真ん中、舟のあたりまで渡る。
水量は、先ほどの飛び石のところほどにはみえなかった。流れが少し反対の岸のほうに寄ってていたからだろうと思う。
ちょうど舟の前の石へと飛んだとき、横でぼちゃんという水音がした。驚いたが、落ちずには済んだ。残された波紋を見て何かの魚がいたのだとわかったが、流れの中は、やはり何も見えなかった。
石の上に座ると、流れは近くなった。
いつだったかのように、舟まで飛び移る勇気を、今日の私は持っていなかった。
ふと思い立って、左手で流れに触れようとした。……怖かった。水に触れてしまうと、文明に守られた私という存在の不可侵性が破れてしまうような気がした。私がこの大きな川の上にあってなお乾いているそのことが、安全ということの表象であるかに思えた。
しかし、触れてみた。
触れてみれば、なんということはなかった。
神社のお手水のような気分になり、次は右手を入れてみた。
右手を上げると、なにか砂のようなものがついたことが分かった。
もう一度川に浸して洗い落としてしまえばいいか。そんなことを考えたとき、何故であろう、私は急に恐ろしくなった。私は石を急いで飛んで岸へと戻った。
――祓ひ給ひ、清め給へ。守り給ひ、幸へ給へ。
そんな祈りの言葉を唱えたあと、私はその場から逃げるように帰った。
濡れたままの手で触ってしまったリュックサックからは、学校のプールの後のなつかしいにおいがした。
家について扉を開けると、外出前に撒いておいたファブリーズの人工的な“芳香”が私を包んだ。
私は窓を全開にして、その匂いを追い出した。
XeLaTeXだとかな混植が簡単にできて最高だという話
結論だけ知りたいひとのために
\documentclass[a5paper,xelatex,ja=standard, enablejfam=true]{bxjsbook} \XeTeXgenerateactualtext=1 \usepackage{zxjatype} %仮名のブロックを定義しておく。 %定義した後は一度キャンセルしておく。 %(そうしないとかなを別フォントに指定しないフォントの定義が面倒になる) %仮名混植をするフォントを定義する場合はRestoreしてCancelするとよい。 \xeCJKDeclareSubCJKBlock{kana}{ "3040 -> "309F , "30A0 -> "30FF} \xeCJKCancelSubCJKBlock{kana} \xeCJKRestoreSubCJKBlock{kana} \setjamainfont[kana=SeiwadoMincho-L]{游明朝 Regular} \xeCJKCancelSubCJKBlock{kana} \setjasansfont{Yu Gothic Regular} \setjamonofont{Yu Gothic Regular} \xeCJKRestoreSubCJKBlock{kana} \setCJKfamilyfont{midashi1}[kana=07ラノベPOP]{Noto Sans CJK JP Black} \xeCJKCancelSubCJKBlock{kana}
こんなふうに、\xeCJKDeclareSubCJKBlockで別フォントを指定したい文字のUnicode符号位置の範囲を指定して、そういう文字グループを作ってやればいいだけ。
簡単!!!
今までのあらすじ
というわけで、XeLaTeXを使えばとても簡単にかな混植を実現できるのですが、ここまでには長い苦闘があったのです……(から始まるポエムがここから続きます)
かな混植とは
そもそも「かな混植」が何かを知らない方のために説明しますと、かな混植とは「文章中の漢字とかなで別の書体を用いる」ことです。
普通、日本語書体は漢字、かな、欧文、約物等々日本語の文章で使う文字がひととおり含まれたセットになっているのですが、あえて一部の文字種だけ別の書体を代わりに使う、つまり書体を混ぜて使うことによって文章の雰囲気を変えることができるのです。
そのうちここで「かな混植」と呼ぶのは、かなだけを別の書体にするものです。
……ファミレスにいってドリンクバーがあると、つい混ぜて謎飲料をつくりたくなってしまいますよね。そういうものです(ちがいます)。
わかりやすい例でいうと『ゆゆ式』の次のコマがあります。
この「夜たまらなくなったらいつでも呼んでね?」は漢字が「ゴナ」、かなが「ゴカール」という書体で組まれています。
左の「教室で変なことを言うなアホッ」は漢字もかなもゴナなのですが、これと比べると随分雰囲気が変わっていますよね(太さが違うので比べづらいかもしれませんが)。
このように大きな効果があげられるので、かな混植はひろく行われています。
かな混植で使うための、かなのみで作られた書体が存在しているくらいです*1。
……さきほどのたとえを引きずるならば、お酒を割るための炭酸水が売られているみたいなものですね。炭酸水をそのまま飲んでもおいしいですが。
先ほど例に挙げたゴカールも、ゴナと組み合わせて使うことを想定されてつくられたかな書体です。
個人的に好きなものとして、石井明朝体+タイポスの混植があります。タイポスは今でこそ「漢字タイポス」として漢字も含んだ書体になっていますが、当初はかなのみの書体でした。
例えば文字組版(DTPと写研電算写植)の仕事場から | タイプアンドたいぽに組見本がありますが、明朝体と組み合わせると一目では漢字が明朝体であると気づかないほどに違った雰囲気になっていて、目から鱗が落ちた記憶があります。
(なぜ「anan」なのか?雑誌名の由来を徹底解説! | コトビー[KOTB]に雑誌『non-no』創刊号の写真がありますが、昭和の香りを感じられて良いですね)
かな混植を実現するために
このようなかな混植ですが、私たちがPCで作る文書で実現するためにはどうすればいいでしょうか?
ひとつは、「初めからかな混植されたフォント」を使うことです。というのも、フォントメーカーによっては、かな書体をそれと合うような漢字書体と組み合わせたフォントを売っています。例を挙げればフォントワークスの「墨東セザンヌ」、タイプラボの「ハッピールイカ」など。書体のかな違いのバリエーションといった書体です。
これを利用する場合は、単にそのフォントを指定して文書を書けばよいので簡単です。ワードでもメモ帳でも、たいていのソフトで実現することができます。
欠点は、当然ですが、初めから用意された組み合わせでしかできないということです。フォントファイルの改変が許されているフォントの場合はFontForgeなどでフォントファイルを弄って新たにつくることもできますが、いちいちつくるのはあまりに面倒ですし、普通の人には敷居が高いでしょう。
ふたつめは、手作業でかなだけを別のフォントに変えること。正規表現で選択して一括で書体を変更する機能のあるソフトウェアならできないわけではありませんし、とても単純な、手っ取り早い方法ですが、あまりスマートとは言えない方法です(文書を修正するたびに書体変更が必要になる)。
そして、みっつめがソフトウェアの混植機能を利用すること。InDesignやIllustratorなどのソフトウェアには高機能な合成フォント機能があり、それを使えば実現できます。かなを変えるだけでなく、約物だけを変えるなどの自由もききます。
一太郎も最近のバージョンではかな混植に対応しているので、(値段などの面から)一般的な文書作成では最も手軽な選択肢かなと思います。
これが最も応用のきいて、かつ綺麗な方法ですが、これはそういった機能をもっているソフトウェアが使えるという前提条件があります。
では、高機能な組版機能をもっているソフトウェアでありながら無償で誰でも使えるTeXではどうでしょうか?
TeXでのかな混植
TeXでかな混植をするための資料としてよくまとまっているのが、たちゃなさんのMacPorts の pTeX における和文多書体環境の整えかたです。この資料で解説されている通りにすれば、pLaTeX環境でかな混植を行えるようになります。
……のですが、問題があって、ここにある方法ではJIS外の文字は使えません。pTeXでJIS外の文字を扱うには齋藤修三郎さんのOTFパッケージを利用すればいいのですが、これに関して先ほどのページには
otf.sty で扱えるフォントをユーザが追加したい場合、 つまり、追加したフォントのグリフを \UTF{...} や \CID{...} で直接呼び出せるようにするには、 otf.sty の様式に沿った多数のフォントメトリックファイル、および仮想フォントファイルを用意しなければならず、 少々面倒な作業となります。
これについては、本稿では説明を省きます。詳細についてお知りになりたい場合は otf.sty の配布物をご覧ください。
とあります。
そもそも私がTeXを使い始めた理由は、青空文庫にあるテキストをいい感じに組版したいというものだったので、JIS外の文字が扱えないのでは困ります。CIDを直接指定して文字を呼び出すことまでできるOTFパッケージは、なくてはならないものでした。
というわけで、upLaTeX+OTFパッケージの環境でかな混植を実現しようと私は何度か挑戦しました。
……が、道のりはあまりに険しく、思い出したときに初めては数時間を溶かし、そのまま疲れて諦めて投げ出すということを繰り返すことになりました。
以下は愚痴です。見る人によっては「なんでそんな程度のことでつまずいているんだ」と思われるかもしれませんが、ご容赦ください。
そもそもTeXのフォントの扱い方は普通のソフトウェアのものとは大きく異なっています。組版(文字の位置を決める作業)する人が皆高価なフォントファイルを持っていなくてもいいようにと、組版時は文字幅などの情報だけをもったファイル(メトリックファイル)を参照し、あとで印刷所でそのフォントを用いて印刷する、というアプローチをとっています。つまり、TeXで新たなフォントを使えるようにするためにはフォントメトリックファイルなどを作成する必要があるのです。
(この点について、和文フォントではほとんどが同じ幅の文字であることを利用して、同じフォントメトリックを流用することが可能なので、欧文フォントよりは少し事情が簡単になってはいます。もちろん、そうした場合は所謂プロポーショナルなフォントは使えません。)
そして、使うのが素のTeXではなく様々に拡張されたものだということも理解の難しさに拍車をかけていました。
pTeXはアスキーがTeXを拡張し、日本語に対応させたもので、和文と欧文を区別する機構などが組み込まれています*2。ここで、pTeXは普通のtfmでなくjfmなる別のメトリックファイル形式を使っているために欧文用に作られたソフトでは扱えないといった問題が出てきます。それでmakejvf等のソフトを使うのですが、いったいこれはどういうものなのかがわからない、と……(たとえばかな以外の文字を別書体におきかえたいときにどうすればいいのか、など)
一番の問題はOTFパッケージの原理がわからないことでした。perlとTeX言語で書かれたコードは、私には難解すぎました(読めないことはないにしても諦めてしまいました)。一体どうやったらCIDまで指定してフォントを呼び出せるのかは想像もつきませんでしたし、しかもそれのupLaTeX版です。upLaTeX自体もどういう仕組みでUnicodeを扱っているのかわからないのに、いったいどうすれば……というところでした。
upLaTeX+OTFパッケージの環境はまるで九龍城のようにみえ、今普通に実用できているのが奇跡のように思えました。
……いま思い返せば、問題を切り分けずに慾を張りすぎて自滅したというところなのですが、まあ、そんなこんなで今までTeXでかな混植をすることは諦めていたのです。
XeLaTeXとの出逢い
そして、今に至ります。私は新しいPCを導入してうきうきしていたのもあり、今まで存在を知りつつも試していなかったXeLaTeXを試します。
……すると、呆気ないくらいに簡単にかな混植が実現できてしまったのです!
XeTeXは、新しいTeXの一つで、フォントを直接扱うことに特徴があります。旧来のTeXのもっていた、「組版環境からフォントが参照できる必要がない」という特長は失いますが、それと引き換えに「OTFフォントのもつ高度な機能を利用できる」という特長を得たのです。
そのため、XeTeXでフォントを指定するためには、ただフォント名を指定するだけととても簡単です。これによって、普通のソフトウェアと同様にOSにインストールされているフォントを使うことができます。
ところで、XeTeXはpTeXと違い日本語に特化した処理系ではないので、和文と欧文を区別したりはしません(日本語が扱えるのは、単にUnicodeの全てを扱えるからです)。したがって、和文フォントを指定すると、欧文も和文フォントの従属欧文で組まれることになります。
そこで使えるのがZRさんのzxjatype.styで、これを読み込むとXeLaTeXの組版が日本語向けに調整調整されるのですが、そのなかに和文と欧文を別書体にするという機能があります。
「これを改造すればかな混植ができるのでは?」――私はそう思いました。
というわけでzxjatypeを覗いてみたのですが、どうもフォントの置き換え処理は内部でxeCJKのものを呼び出しているようです*3。そしてxeCJKを覗く……には大きかったので先にマニュアルをみてみました。
……マニュアルが中国語でした。はい。
普段、日本語ばかりで書いている英語嫌いの私ですが、この時になって国際語のありがたみを知りました。英語は嫌いだけれどなんだかんだ読めるんですよね……*4
ただ、幸い日本人には漢字が読めるので、意外と雰囲気がわかります。ざっと読んでいたら、\xeCJKDeclareSubCJKBlockをみつけました。
「え?」という感じでしたが、例をみるとそれはとても目的に適ったものに見えました。改造などしなくても、はじめから機能が用意されていたのです…!
何故こんな機能が用意されているのかといえば、TTF、OTFフォントの文字数制限が理由でしょう。
これらのフォント(つまり一般に使われているフォントです)には、2^16=65536文字しか文字(グリフ)を含むことができないという制限があります。そのため、それ以上の文字を扱おうとすると、フォントファイルを別に分ける必要がでてきます。
マニュアルで例に挙げられていたのはMingLiUとMingLiU-ExtBでしたが(ExtBはUnicodeのCJK統合漢字拡張Bの意)、日本のフォントである花園明朝A、花園明朝Bもこのようになっています。
xeCJKのこの機能は、そういった複数のフォントを文字の範囲によって使い分けるために作られたものだと思われます。
と、なればあとの話は簡単です。ひらがな、カタカナの範囲を指定したブロックをつくっておき、新しいフォントを定義するときに適宜呼び出せばいいのです。
ちなみに、この機能を使えば約物の書体だけを変えるといったこともできます。最高です。
今後の展望
これでかな混植をすることができたわけですが、ひとつ問題があって、XeLaTeXは縦書きにうまく対応していないという問題があります。
ということで、青空文庫をいい感じに組むという目的は達成できないという問題があります。
……どうしたものでしょうね?
追記 (4/16)
LuaLaTeXでもかな混植ができて、更に縦組みもできるということを教えてもらいました。ありがとうございます。
(LuaLaTeX、重いという噂と日本語がまともに扱えるという印象がなくて触れていなかったのですが、知らないうちに便利になっていたのですね……)
TeXを便利にしてくださる開発者の方々にはいつも感謝しています。
(追記以上)
(追伸)ブログらしく、適宜太字をあしらってみたのですが、如何でしょうか。なんとなく俗っぽい雰囲気がでるとともに、緩急がついて多少読みやすくなった気がしています。
数値解析と物理学
数値解析と物理学 #mathematics #physics https://t.co/rCOSOw9EUJ @SlideShareさんから そういえば、シンプレクティック・オイラー法あたりについてこの前した発表のスライドを昨日あたりこっそり上げていたので、よろしければどうぞ。
— すずしめ (@suzusime) 2017年3月25日
こんな風にツイッターにはっていたのですが、このままだと参照が難しくなってしまうので、ブログの記事として書いておこうと思った次第です。
これはこの前の三月のKMC春合宿で発表したものです。
スライドでも触れている通り「物理学情報処理論2」の講義で触れられたシンプレクティック数値積分法に感動した結果、その面白さを少しでも伝えたいと思って発表したのですが、正直なところその場の人にはあまり伝わらなかったかなという感触でした(反省点です)。
敗因はおそらく、解析力学を導入からハミルトン形式まで30分で話したことですね……
初めから無茶なことは分かっていましたが(講義で一年かけてやるような内容です)、シンプレクティック法の原理に正準変換が本質的に関わっていること、予備知識のない人にも知ってほしいという思いからこういう構成にしてしまいました。
恐らく、90分で済ますのならば解析力学の予備知識を仮定するのがちょうど良かったのでしょう……
(そういえば最近ホログラフィー原理についての市民講演会に行ってきたのですが、30分でああいう内容を語れるのは見事としか言えませんでした。すごいなと。本当。)
そういう発表になってしまいましたが、供養としてインターネットに放流しておきます。物理を学んでいる方には伝わるかな、と。
もし興味を持たれたならば、最後に載せてある参考文献を読んでいただければと思います。
基本的には、三井斌友ほか『微分方程式による計算科学入門 』(共立出版)が詳しいです。
www.slideshare.net
憧れ
南家の郎女の神隠しに遭ったのは、其夜であった。
(中略)
姫は、何処をどう歩いたか、覚えがない。唯家を出て、西へ西へと辿ってきた。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教はらずに、裾を脛まであげた。風は、姫の髪を吹き乱した。姫は、いつとなく、髻をとり束ねて、裾から着物の中に、含み入れた。夜中になって、風雨が止み、星空が出た。
春。
世界は花に彩られ、人々は新しい希望を胸にためてゆく季節。
ここで、少し「憧れ」についての話を書きたいと思います。
憧れ。辞書で引くと、「あく」+「離れ」で、元いた場所を離れてさまよう意味だとあります(『精選版日本国語大辞典』)。
この語源が、憧憬の心を的確に描写していて、私は「あくがれ」という言葉がとても好きです。
冒頭に引いたのは私の大好きな小説「死者の書」の一節ですが、この小説は全体として「憧れ」を表現しているように思います。
学問好きな「姫」(藤原南家の郎女)は、千部写経をしていた彼岸中日、山のむこうに人の俤を見ます。そして彼を心に描いて、その後も写経を続け、そして写経を終えたまた彼岸中日、俤を期待していたところに雨。いてもたってもいられなくなり山の方へと駆け出した。引用したのはそういう場面です。
屋敷から一歩も出ることなく、薄暗い部屋でずっと育てられてきた姫は、この後の場面で万法蔵院(當麻寺)に辿り着き、初めて見る世界の美しい光景に胸を打たれるなどするのですが……それに関しては私が書くよりも本を読んでもらう方が絶対に良いので、ぜひお読みください。私の今までで読んだ中では最も素晴らしいと思う小説です。「言霊」といってしまえば陳腐かもしれませんが、非常に美しい言葉で世界が描かれるのです。岩波文庫、中公文庫、ちくま文庫で出ていますが、初めての方には岩波文庫のものが読みやすくておすすめです。
……私もいつかあんな文章を書けるようになりたいものです。
さて、話を戻します。
姫は、あの場面において、まさに憧れたのです。心も空に、身は家を離れる、と。そのことは、この小説が古代に時代を借りていることから、魂呼ばいのシーンでわかりやすく示されています。
魂が抜けたような熱中。夢の中のように、ぼうっと、しかしよくわからない昂ぶりがある。この感覚が憧れなのです。
(私は、きっと恋と呼ばれるものも憧れの別名であって、それ以上にこの世界の人の衝動というものは総じて憧れによって動かされているものなのではないかと思います。)
これを読むと私は姫の心にとても共感してしまいます。私の心がそのまま姫の心として描かれているかのようにまで思うのです。
おそらくそれは作者である民俗学者折口信夫の心でもあるのでしょう。
魅せられてしまった遠いものへの憧れ、これが学問の本質であろうと思います。
……憧れ続けた先に、もし辿り着くことができたらどうなるでしょう? この小説の最後の場面に次のような一節があります。
郎女が、筆をおいて、にこやかな笑ひを、円く跪坐る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去った刹那、心づく者は一人もなかったのである。まして、戸口に消える際に、ふりかへった姫の輝くような頰のうへに、細く伝ふもののあったのを知る者の、ある訣はなかった。
涙、です。けれど、この涙は私には理解できます。理由を言葉にすることはできないけれど、そこで涙を流すことがとても自然なことのように思えます。
折口信夫が共感を寄せる詩人、リルケの詩「ドゥイノの悲歌」にも同じ涙が描かれています*1。
ああ、いつの日か怖るべき認識の果てに立って、
歓喜と讃えの歌を、うべなう天使らに高らかに歌いえんことを。
澄み徹って撃たれる心情の琴槌が
かよわい弦やためらう弦、または絶えなんばかりの弦に触れて
楽音のみだれることのなからんことを。ほとばしる涙がわがかんばせに
さらに輝きを加えんことを。人知れぬ流涕も
花と咲き匂わんことを。
この歌の高らかに歌う「認識の果て」。それは人間存在のあり方についての問いであって物理学の問いとは違うけれど、これは憧れの全てに一般化してしまってもよいと思うのです。
――いつか、こんな風に涙を流し、そしてどこかへと消え去ってしまいたい。そう願うのは悪いことでしょうか?
*1:今解説を読んだらどうも違うことが書いてありましたが、私はそのように思ったということです。
巫女の日
本日3月5日は「巫女の日」でありまして、本当は何かしら絵を上げたかったのですが、やっぱり無理というかんじになってきたので諦めてかわりにブログ記事を綴りたいと思います。
巫女の日への思い
中学一年生の時『我が家のお稲荷さま。』のコウちゃんにえもいわれぬ感情を抱き、そこからいろいろあって巫女さんという概念への憧憬*1、或いは恋とでもいうものをもつに至った私であり、爾来、巫女さん関連のサイトをたまに覗いてはそこに漂う二十世紀インターネットの情熱と香りを楽しんできました。
その中にあったのが「巫女の日」でありまして、人々が思い思いに巫女さんの絵をあげているのをみていると、楽しそうだなぁ、いつかはこんなことがしたいなぁという思いが毎年湧いてくるのでした。
大学生になり何か新しいことをするぞと思い立って長年の悲願であったお絵かきに手を出してみたはいいものの、さして努力することもなく……という状況であります。
「巫女の日に絵を上げる」というのは絵を描こうと考えたときからの一つの目標だったわけですが、結局今年もだめでした。
来年こそは上げるぞ!!!
敗因
時間がなかったことです(いつも言ってる気がしますね……)。
というのも巫女の日のことを思い出したのが3月2日だったのです。
そしてそれは山形県某所の旅館でのこと。京都に帰ってきたのは3月4日朝。それから2日。
2日ずっと取り組んでいれば仕上がった可能性は十分ありますが、わたしはいつもながら怠惰なので結局今日5日の21時まで手を付けませんでした。
21時に目覚めて小品ながらできる限りやろうという気分で着手したはいいものの、線画まで描いたところであまりに残念な感じだったので諦めた次第です。下手なだけならいいのですが、雑さが自分でもよくわかってしまうのはちょっと厳しいですね。
来年は春休みに突入するあたりには始動させていきたいですね……
山形のこと
先ほど山形県某所の旅館にいたと書きましたが、それは自動車免許をとるための合宿に行っていたからです。16日間、長かったです。明日京都の免許センターで学科試験を受けて免許を取ってきます。
マニュアル車を選択したこともありまた不器用なのでいろいろ厳しかったのですが、サークルの人たちと8人でいったので、楽しいこともたくさんありました*2。
その他良かったこととして、(マニュアル車を選択したからか)時間割に「午前はなくて午後のみの日」「朝一番だけあってそのあとはない日」などがあったために山形県の各所を観光できたことがあります。山形の観光地というとあまり知りませんでしたが、インターネットで調べて行ってみたところ想定以上によいものでした。
いかにも貴族的でやけに豪華な文翔館、階段が凍結していてひたすら危ないけれど上からの眺めは最高だった山寺。
この二つはぜひともお勧めしたいところです。
大学のこと
もう二回生も終わり、学部生も折り返しに入ります。
そして理学部生には一大イベントである系登録があるのです。
系は数学系か物理系かで揺れていましたが、物理系で落ち着きました。
問題は課題演習をまだ決めていないことです。系登録と課題演習登録は3月7日~10日。早く決めねばなりません。
……「3回生になったらちゃんと物理をすることになる」という話を先輩から聞きます。つよくなりたいですね。
その他読んでいる本
免許合宿に持っていった次の3冊を紹介しておきます*3。
1984年
honto.jp
有名なディストピア小説。「ニュースピーク」云々はWikipediaなどで知っていたのですが、読んでみると「うへー」といった感じでした。権力への考察が面白いです。ずっしり心に沁みてくる本です。
北一輝――国家と進化
honto.jp
読みかけ。北一輝にはその文章と今の日本ではあまり表に出てこないような考えから惹かれてきましたが、長大な「国体論及び純正社会主義」を読むことは未だできておらず、その思想がどんなものかという全体像のようなものはわかっていませんでした。
この本は政治思想史の専門家が北一輝の思想を読み解き、様々な思想家と比較しながら論じていくものです。
北一輝が批判した明治時代の憲法学者たち、社会進化論のスペンサー、そしてプラトン(北一輝の社会主義はマルクスでなくプラトンに依るという)やニーチェ、田辺元などなど、たくさんの思想家との比較が出てきて面白いです。
北一輝の解説書ではありますが、もっと大きく「国家とは何か」という根本的な問題についての様々な理論を紹介しているの本であり、「私が求めていた本はこれだ」という感想です。
国家は一つの実体のある有機体であり、それが主権をもつ。その構成員たる人間は「進化」により国家と個の善の一致する「神類」へとなる。――北一輝の思想の要約はこんなものかなと思いますが、まだ読み終えていないので詳しい話はいずれ。
おわりに
がんばるぞい!
エラーの先にあるもの
この記事はKMC お絵かき Advent Calendar 2016 の6日目の記事です。
www.adventar.org
前日の記事はnonamea774さん……のはずですが、今のところ投稿されていません。
……本日は12月28日であり、これはアドベントカレンダー6日目の記事です。つまり、3週間ほど遅刻しています。遅刻とかいう範囲をはるかに超えていますね。ええ、まったくもう。アンツィオ高校もびっくりですよね。
すみませんでした!!
ということで本題ですが、私の描いたものはhttp://mars.kmc.gr.jp/~suzusime/saikounoe.pngです!
………
……
…
削除したわけではありません。この404エラーページこそが今回作ったものになります。
解説
Webページを見るとき、我々(のブラウザ)はサーバーに対して「このページを見せてください!」という要求を送ります(HTTPリクエスト)。これに対してサーバーが応答し、状況に応じて様々な返答をします。そして、状況の種類ごとにつけられた3桁の番号も伴に返します(HTTPステータスコード)*1。
通常の、ページが閲覧可能な状態の時はそのページの内容を返してくれます。このときのステータスコードは "200 OK" です。
もしサーバーに大量のアクセスが来ていてサイトが表示できないならば "503 Service Unavailable" を返し、エラーページが表示されます。
そして、サーバー上に要求したファイルが存在していないという場合のステータスコードがおなじみの "404 Not Found" です。
エラーが発生した場合、通常はサーバーのソフトウェア(apacheなど)やブラウザによるエラーページが表示されるのですが、このときに表示されるエラーページは設定で変更することができます。それが今回の404エラーページというわけです。
設定は .htaccess を用いて行いました。".htaccess"という名前のファイルをサーバーに置き、
ErrorDocument 404 /~suzusime/errorpages/404.html
と記述するだけでです。これによって、この .htaccess のおかれたディレクトリ以下で発生したエラーについて、ここで指定したエラーページが表示されるようになります。
思い
なんでこんなものを作ったのか、それには遠い昔からの思いが関係しています――
……というほどではないのですが、実はある意味これは悲願であったりするのです。
というのも、中学生だったか高校生だったかの昔、あるサイト*2で、こういうふうに女の子の絵が配された404エラーページをみて深い感動を覚えたのです。
それだけといえばそれだけなのですが、インターネットの無機質なエラーメッセージに慣れきっていた身には、「こんなこともできるんだ…!」とびっくりしたのです。まともにサイトを運営しているわけでもないのに、エラーページを作りたくなりました。これをしたいがためだけに、自宅サーバーを立てようといろいろ調べていたこともありました*3。その思いをようやく遂げることができたわけです。
インターネット。
全世界を繫ぐ壮大なネットワークです。
インターネットを通じ人々と手紙を送りあい、あるいは情報を、思いを発信することができます。
私が子供のころ、2000年代のインターネットは趣味の人の場という印象が強い素朴なものでした。
一方、今では人々が利益を上げるために競い合う、商業の場へと雰囲気を変えている気がします。
私は素朴なインターネットが好きです。不器用な中の温かみとでもいうのか、そういったものが好きです。
数GBの動画ファイルをYoutubeに上げられる時代ですが、私はこの100KBに満たない絵がほんわかさせる力を信じたいのです。
……「紛争地にゆゆ式のDVDをばら撒いたら戦争がなくなる!」みたいな冗談をみたことがありますが、案外そんなものじゃないかなぁと思うのです。
みなさんもエラーページをかわいくしてみませんか?
簡単なのでぜひやりましょう!
なお、もうすこし大きい画像を pixiv においておきました。
www.pixiv.net
KMCM
さて、ここまでアドベントカレンダーが遅れたことの理由のひとつにKMCの部誌を編集していたことがあります(言い訳でしかない)。
というわけで部誌を宣伝します。
KMC(京大マイコンクラブ)は明日12月29日にコミックマーケット91に出展します。
そこで私が編集した部誌「独習KMC vol.10」も頒布されます。記念すべき第10号です。今回も盛りだくさんの内容です。今回はいつものLaTeXではなく、がんばってInDesignで組版してみました。
コミケ1日目に行かれる方は、ぜひKMCのブース(西ほ40-b)にお立ち寄りください!
また、KMCではインターネットや巫女さんに興味がある部員を募集しています。詳しくは
www.kmc.gr.jp
をご覧ください。
明日(12月7日だった)の記事はryau07君の
ryau07.hatenablog.com
です。
……早苗さんがすきです。
また、KMC全体のアドベントカレンダーもあります。そちらもぜひご覧ください。
www.adventar.org
それでは良いお年を!
後期がそろそろ半ばを越えて/学生自治の話/二重登録の話
二ケ月弱あった夏休みはどこかえ消えてゆき、かわりに大学の憂鬱を置いてゆきました。と書き始めた記事の下書きがずっと残っていたのでいたので書き足して公開します。
少なくとも私は望んで大学に来て望んで物理学を学んでいるわけでありまして、その学習の手段として提供されている*1講義を受けるのは良いことでこそあれ、悪いことではないはずですが、一体どういうわけであるか大学に毎日通って講義を受けるのに愁いを感じてしまうのです*2。
「履修登録をしないで夏休みを4ケ月延長!」とか冗談を言ってみたりはするものの、まあ私にそんなことをできる勇気があるわけもなく、今までの3半期のようにいささか多すぎる講義の履修登録をして、忙しい、つらいとかいいつつ半期をなんとかのりきるというようなことになるのだと思います。実際今になって振り返ると、行かなくなった授業も多く、少なくとも今までの四半期の中では一番時間を取れている気はします。
一年くらい休学したい気もするわけですが、事実上の留年のようなことになるとなると大学に行く気がなくなって中退するようなことになりそうだなとは思うわけです*3。
理想形は「卒業要件を満たした状態で卒業請求をせずに大学に留まる」でしょうかね。いまのところ京大理学部では卒業の条件(4年間在学すること、系登録してから2年間経過すること、所定単位を取得すること)を満たしたうえで卒業の申請(学士試験合格認定申請)をしない限りは卒業できないので、卒業申請を敢えて出さなければ大学に留まることができるはずです。単位は全部取っているはずですから、休学すれば学費も払わなくて良いはずです。理想的なモラトリアムですね。院試に全落ちでもしない限りやらないとは思いますが。
そういえば最近以前日本女子大の「休学費」についてのブログが話題になっていました*4。読んで最初に思ったのは「大学当局に嘆願書を出して、それが認められなかったらそこでお終いなのか……」という感想でした。そこで唐突に終わってしまってなんか拍子抜けしてしまいました。当局に要求するなら、もし受け入れられなければ説明会の開催を要求したりだとか、立て看板をだしたりビラを撒いたりして広告するとか、そんな光景を日常的にみているからでしょう。個人的に嘆願したのならともかく、学生自治会の決議を得た自治会としての要求がそんな簡単に諦められてしまうのは不思議だという感覚がありました。
去年私が入学してからだけでも、吉田寮の入寮停止通告、総合人間学部仮承認団体の廃止という2つの大学当局の決定が学生の諸団体による抗議によって撤回されているのをみています。是非はともかく、それくらいの力は学生にあると思っています。
……最近の(とはいっても昔を知りませんから昔からかもしれません)京都大学当局のやり方はかなり強引だなと感じています。たとえば上に挙げた「総合人間学部仮承認団体の廃止」は、かつて教養部公認団体であったサークルが教養部の廃止のあときちんと全学公認団体に引き継がれていない中途半端な状態であったのを是正するという名目のようでしたが、かなり露骨な政治系サークル*5潰しでした。そのなかでかつてあるサークルと結んだ「確約書」をよくわからない理由で握りつぶしたらしく、それが事実ならばそうとう好き勝手やっているなと思うわけです。相手が何であれ、嘘をついたり約束をたがえたりするのは良くないという感覚があります。
そういうことがあったにして基本的には他人事ですから、当局がおかしいと思うから頑張ってほしいと心の中では思っていても、とくになにかすることはありませんでした。一回生へのTOEFLの強制受験に対する不満なんかもありましたが、主にそれを主張していたのが過激派たるところの「同学会」*6だったので大っぴらに応援しづらいところもありました。
一度だけ、自分から大学に文句をいいたくなったのは、二重登録の廃止が通知されたときです。昨年度まで理学部では理学部科目の二重登録*7ができましたが、今年からはそれができなくなりました。それがわかったのは、昨年末に教務窓口に張られた、次年度から履修登録が教務情報システムKULASIS上で行うように変更される旨を書いたプリントのしたのほうにあった小さな脚注によってでした。
今まで二重登録ができたことが異常だというはなしはありますが、それについてはいま京大基礎物理学研究所にいらっしゃる佐々木節さんの文を引用しておきます*8。
先ほど触れたように,当時の京大教養部には学生運動の余波が色濃く残っており,まだまだ正常に授業や試験が行われる状況には程遠かった.しかし,理学部キャンパスの方は比較的落ち着いていた.さて,その当時の京大理学部では,3,4回生向けの理学部専門科目を1回生から履修することができるだけではなく,講義の時間帯が重複していても何の問題もなく単位の取得が可能であった.しかも,単位認定は,学生が各講義の担当教官から成績を記入した「履修カード」をもらい,それを各自が自分の履修記録表に貼り付けたものを教務掛に提出する,というシステムであった.すなわち,万一単位を落としてもその落第記録は残らないわけである.あるいは「可」の成績がついた科目は,翌年度に再度履修して「良」や「優」などのよりよい成績を取れたら,「可」の履修カードを捨ててよりよい成績を記録に残す,という裏技(?)も可能であった.つまり,授業が難しくて単位を落とすのではないか,という不安をあまり感じることなく,安心して履修ができたわけである.そこで,さすがに1回生からの履修はしなかったが,2回生になると,背伸びをして専門科目をいくつも履修したものである.
現在はコンピュータによって履修が管理される時代になっており,このようなことはもう不可能なのかもしれないが,思い起こすとこの当時のシステムは,私のようにグータラで,しかし学問に対する憧れだけは強い学生にとっては,真にありがたかった.失敗を恐れずに,面白そうと思った科目はすべてまずは履修してみる,ということが可能だったからである.
私はまさにこの「グータラで,しかし学問に対する憧れだけは強い学生」ですから、とてもありがたかったのです。去年は後期にひとつだけ、2回生向けの統計力学Aの授業と1回生向けの物理学基礎論Bの授業を二重登録していました。最初のほうは統計力学の授業にでていて、途中でついていけなくなって諦め、後半は物理学基礎論Bの授業にでてそちらの試験を受けて単位をとりました。もし二重登録の制度がなければ最初から統計力学の授業に出ようとは思わなかったでしょう。
それが突然廃止されるとなったのです。私はいてもたってもいられなくなり、噂を聞いたその日に理学部教務掛に行って話をきき、それが撤回されるようなことはないか、などと聞きました。今は担当者がいないから話が聞きたいならまた後日来てくれ、などといわれてしまいました。
その後、いろいろ考えたのですがやはり、そのまま諦めてしまいました。
こういった制度を残すことは来年入学してくる後輩への責務ではないか、そんなことを思ったりもしたのですが、やはり一人で話を聞いたり文句を言いに行ったりするのは怖かったのです。
この時に初めて自治会の大切さが身に沁みてわかりました。「私が理学部自治会とつながりがあればなぁ」と思いました*9。個人として行くのと自治会の決議を経て自治会の代表者として行くのではこちらの安心感も相手の対応も違うでありましょう。
寮と当局の「団交」などでは学生は顔をマスクなどで隠して、本名も伏せて発言しているといいます。それ以前の私はこういう話を聞いても大げさだなと思うくらいでしたが、実際に一度交渉してみようかと考えてその気持ちがよくわかりました。
はっきりいって怖いです。普段からいろいろとお世話になっている教務の方々やもしくは教授などにそういう人として顔を覚えられてしまうのを考えると、かなり気まずいです。
団交という形式にしろこういう顔を隠す方式にしろおそらく労働運動に由来しているのだと思いますが、当事者になってみてはじめてわかる偉大さでした。
さて、その後私はいろいろあっていくつかの「学生自治」の場に立ち会うことになりました。それで知ったことは、「自治は面倒くさいし大変」ということです。また、大学に入る前に漠然と想像していたような綺麗なものではないということです。
大学の自治とかいっても、結局は小さな政治です。お金の絡んだ話だとか本音と建前の使い分けだとか既得権益の確保だとか恫喝だとかそういった汚いものもたくさんありました。そして、「民主的」であるためにはたくさんの会議を開くなどしなくてはならず面倒です。
けれど、それでも自治を行おうとするのは、それに切実な理由があるからでしょう。私も理学徒ですから「政治などには関わるものか」と思っていたのですが、気づけばいつのまにか参加することになっていました。それは自分のあるいは周囲の人の利益を守るためです。仙人ででもなければ政治に関わらずいることは不可能であることに気づきました*10。
自治が面倒くさいのは当然です。面倒だからと「上」にすべての決定権を委ねることもできます。近年は政治への関心が薄く、地方自治体選挙は言わずもがな国政選挙ですら投票率が低くなっています。この豊かな社会の中で政治の切実な必要さを感じなくなった人々は着々と「委任」の方向へ傾いていっています。
もしかすると「委任」の方が良い結果を導くのかもしれません。が、この大学で未だなお各所に「自治」のしくみが残っているのは、やはり権力への懐疑が根強いからでありましょう。私としては、この大学にくらいはこういった香りが残っていてほしいなと思うのです*11。
*1:学費を以てその権利を買っているのですが。
*2:このブログでも幾度となく言っている気がします。
*3:大学入試で浪人しているし、そのことはほとんど気になっていないことから杞憂という気もする。
*4:http://www.manazooooo.com/entry/2016/10/09/171855
*5:哲学研究会とピースナビ。私は右翼を自称しているので彼らの意見とは相いれないけれど、そういう団体が存在しても良いと思っています。たとえば学園祭からは毎年追放決議がだされている原理研(統一教会の宗教サークル)なんかも全学公認団体だったりするわけで、公認団体なんて自由に認定すればいいのになと。
*7:同じ曜日・時限のコマに複数の授業を履修登録すること。ハーマイオニー。
*8:数理科学編集部編「物理の道しるべ」(サイエンス社) 112ページより
*9:本当は理学部自治会評議会は誰でも参加できるわけですが、いかんせんよく知らない組織なので躊躇ってしまったのです。
*10:「地方自治は民主主義の学校」という言葉がありますが、こうやって「自治」が政治の意味に気づかせてくれるということではないかなと思います