憧れ
南家の郎女の神隠しに遭ったのは、其夜であった。
(中略)
姫は、何処をどう歩いたか、覚えがない。唯家を出て、西へ西へと辿ってきた。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教はらずに、裾を脛まであげた。風は、姫の髪を吹き乱した。姫は、いつとなく、髻をとり束ねて、裾から着物の中に、含み入れた。夜中になって、風雨が止み、星空が出た。
春。
世界は花に彩られ、人々は新しい希望を胸にためてゆく季節。
ここで、少し「憧れ」についての話を書きたいと思います。
憧れ。辞書で引くと、「あく」+「離れ」で、元いた場所を離れてさまよう意味だとあります(『精選版日本国語大辞典』)。
この語源が、憧憬の心を的確に描写していて、私は「あくがれ」という言葉がとても好きです。
冒頭に引いたのは私の大好きな小説「死者の書」の一節ですが、この小説は全体として「憧れ」を表現しているように思います。
学問好きな「姫」(藤原南家の郎女)は、千部写経をしていた彼岸中日、山のむこうに人の俤を見ます。そして彼を心に描いて、その後も写経を続け、そして写経を終えたまた彼岸中日、俤を期待していたところに雨。いてもたってもいられなくなり山の方へと駆け出した。引用したのはそういう場面です。
屋敷から一歩も出ることなく、薄暗い部屋でずっと育てられてきた姫は、この後の場面で万法蔵院(當麻寺)に辿り着き、初めて見る世界の美しい光景に胸を打たれるなどするのですが……それに関しては私が書くよりも本を読んでもらう方が絶対に良いので、ぜひお読みください。私の今までで読んだ中では最も素晴らしいと思う小説です。「言霊」といってしまえば陳腐かもしれませんが、非常に美しい言葉で世界が描かれるのです。岩波文庫、中公文庫、ちくま文庫で出ていますが、初めての方には岩波文庫のものが読みやすくておすすめです。
……私もいつかあんな文章を書けるようになりたいものです。
さて、話を戻します。
姫は、あの場面において、まさに憧れたのです。心も空に、身は家を離れる、と。そのことは、この小説が古代に時代を借りていることから、魂呼ばいのシーンでわかりやすく示されています。
魂が抜けたような熱中。夢の中のように、ぼうっと、しかしよくわからない昂ぶりがある。この感覚が憧れなのです。
(私は、きっと恋と呼ばれるものも憧れの別名であって、それ以上にこの世界の人の衝動というものは総じて憧れによって動かされているものなのではないかと思います。)
これを読むと私は姫の心にとても共感してしまいます。私の心がそのまま姫の心として描かれているかのようにまで思うのです。
おそらくそれは作者である民俗学者折口信夫の心でもあるのでしょう。
魅せられてしまった遠いものへの憧れ、これが学問の本質であろうと思います。
……憧れ続けた先に、もし辿り着くことができたらどうなるでしょう? この小説の最後の場面に次のような一節があります。
郎女が、筆をおいて、にこやかな笑ひを、円く跪坐る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去った刹那、心づく者は一人もなかったのである。まして、戸口に消える際に、ふりかへった姫の輝くような頰のうへに、細く伝ふもののあったのを知る者の、ある訣はなかった。
涙、です。けれど、この涙は私には理解できます。理由を言葉にすることはできないけれど、そこで涙を流すことがとても自然なことのように思えます。
折口信夫が共感を寄せる詩人、リルケの詩「ドゥイノの悲歌」にも同じ涙が描かれています*1。
ああ、いつの日か怖るべき認識の果てに立って、
歓喜と讃えの歌を、うべなう天使らに高らかに歌いえんことを。
澄み徹って撃たれる心情の琴槌が
かよわい弦やためらう弦、または絶えなんばかりの弦に触れて
楽音のみだれることのなからんことを。ほとばしる涙がわがかんばせに
さらに輝きを加えんことを。人知れぬ流涕も
花と咲き匂わんことを。
この歌の高らかに歌う「認識の果て」。それは人間存在のあり方についての問いであって物理学の問いとは違うけれど、これは憧れの全てに一般化してしまってもよいと思うのです。
――いつか、こんな風に涙を流し、そしてどこかへと消え去ってしまいたい。そう願うのは悪いことでしょうか?
*1:今解説を読んだらどうも違うことが書いてありましたが、私はそのように思ったということです。