名前

「だって名前を断ち切る蜻蛉切でしょう? 私、ジョセフィーヌとかスザンヌとか、いろいろと通り名作ってるから。そっちのほうが軽いし。刃って、切りやすい方に滑るわよね」
「――ま、待て!」
 二代が叫んだ。
「蜻蛉切は、通り名だろうと、機体称呼だろうと、威力が減衰するが断ち切れるはず!」
「あら、そういうものなの? じゃあ、残念ね。今までその槍が切ってきた通り名とかその他いろいろは、――それを使ってるやつらが、自分自身だと信じてたものなのね、きっと」
「お主は、己の通り名を、一体何だと……」
「ファッションよ。衣服と同じ。だから、――服と一緒に切れたのはそちら」

川上稔境界線上のホライゾン I〈下〉』(電撃文庫)より)

――ここに引いた賢姉様の台詞、初見では「そんなのありかよ」と思っていましたね。さすがにご都合主義に過ぎるのではないかと。まあ私はひとえにご都合主義が嫌いという訳でもないので、それはそれでいいのですが、それはそれとして、名前について考えるとこの一節はなかなか当を得ているなと思えてきたので引いたという次第です。

私もインターネットの上でいくつかの「名前」を持っています*1。(世間をみれば今時の中高生や逆に上の方の世代の方々、及び海外の人々は得てして実名インターネットをする傾向にあるらしく*2、インターネットに実名を晒すことに極めて強い抵抗を感じるのは2chなどを見て育ってきた我々の世代特有のものなのかもしれないな、などと思うこともあるわけですが、ともかく、)実名でない名前、ハンドルネームを考えてはそういう人格を作り、そういった人間として活動していくわけです。名前が人格を生むのであり、名前の数だけ人格をつくれてしまうのです。

別にこれはインターネットの中だけに限られた話ではなく、また個人の名義に限られたの話でもありません。
「同人」の世界を知りめた昔(中学生の頃)、どうもサークルというものを単位としてやっているらしいということを理解したのですが、東方Project上海アリス幻樂団が一人のサークルだと知ってびっくりした記憶があります。
「サークル」という言葉は広く使われていますが、学校の「部活動」以外を知らない身にはいったいどういうものを指しているのかよくわからなかったのです。
……一人でサークル、これ如何に。

いざ大学生になってみると、「なんだ、そういうものか」となりました。サークルは、いわば概念でした。サークルは、サークルを立てると宣言した瞬間に誕生するのです。
私が一回生の頃、よくTwitter上で「#京都大学ポテトサラダ同好会」なるハッシュタグをつけて学食のポテトサラダの写真をアップロードする遊びが行われていたのですが、それも一種の同好会なわけで、なるほどなとなりました。「我々はサークルをつくるサークルです。私は〇〇個のサークルを作りました。うち△△個は私一人だけのサークルです」といった張り紙をみたこともあります。どこまで本気かわからない政治的な主張のビラは、たいていの場合そのとき初めて見るような同好会の名前で出されます。

要するに、サークルというのは名義だったのです。
ハンドルネームと違うのは、暗黙裡に一人であるかどうかはわからない人間の集合であることを示しているということだけです*3
同じサークルの名義でなにかが行われるとき、それは関連性、連続性をもつものと解されることを意図しているのでしょう。
メンバーが同じでも別の目的があれば別の名前のサークルを名乗り、人が違っても連続性をもたせたいならば同じサークルの名義を名乗る、そういったものなのです。


人は、縁――或いは絆――に縛られるものです。連続性をもたらす「名前」というものは、絆そのものでしょう。
「名誉」は同じ名前を使い続けることでしか得ることはできません。
しかし一方で、その名前には望まないしがらみや、捨てたい過去も載っていくのです。

ハンドルネームやサークルの名義を用いることの素晴らしさは、こういったことを自由にコントロールできることです。
本名を用いて、変えられない顔を用いる現実世界では、望む望まないに拘わらず人間は一人の連続した人間として名誉と責任とを背負うことを余儀なくされます。
一方で、自分が新たにつけた名義で活動する場合は、特に「顔の見えない」インターネットの中では、しんどくなったら名前を捨てる、また使いたくなったらまた使う、なんてことが自由にできるのです。
ある種無責任なわけですが、そういった気楽さはとても大事なことだと思います。
(だから、やっぱり“かけがえのない”本名や顔を明かすのが怖いと思うのは正しいはずです(自己正当化)。)

 しかし、どこかに一人の青年がいるだろう。彼の心には、何か彼自身を戦慄さすようなものが生れかかっている。そのような青年にとって、おまえが無名であることはきっと大切なことに違いない。おまえには、おまえなどを虫けらのように思っている人間が、行く手に立ちふさがっているかもしれない。おまえの周囲の人々がみんなおまえを見限っているかもしれない。あるいは、おまえのいだいている思想が気にくわぬとして、頭からおまえをやっつける人々もあるだろう。しかし、それら目にみえぬ敵はかえってただおまえの決意をしっかり心の中でささえてくれるだけなのだ。そのあとからやってくる「名声」という陰険な仇敵に比べれば、まるでなんのたわいもないものだ。名声はお前をまきちらし、おまえという詩人を毒にも薬にもならぬものに変えてしまうのだ。
 僕は誰一人おまえのことを口にしてもらいたくない。むろん、悪口は絶対言ってもらいたくない。星が移り月が変って、おまえの名前は世間の口にのぼるようになるかもしれぬが、おまえはそれを、移り気な世間の人々の口の端にのぼるすべてのこと以上に真剣に考えてはならぬ。むしろ、名まえはそれで汚されたと思い、なるべく早く捨ててしまう方がよいのだ。さっそく何か別の名まえと取りかえて、深夜、神さまにだけその新しい名前を呼んでもらうことを考えねばならぬ。そして、それは誰にも知らせず、そっと隠しておくのだ。

リルケ作、大山定一訳『マルテの手記』(新潮文庫)より)

社会とか、そんなもののなかで、人は「優秀な人間」とかそうでないとか、そういった評価を得てしまうわけですが、そういうものはとても不幸なように思えます。
仕事ができてもそうでなくても、絵がうまくてもそうでなくても、数学ができてもできなくても、それは私だ!――そんなことを叫びたくもなります。
(自我同一性を何に求めるかという問題は、あるいは青年期特有のものなのかもしれませんが。)

神様にだけ本当の名前を告げる、それはこういった社会からの防禦策なのだと思います。
自分という全存在が懸かってしまう本名(あるいはそれに準ずる名)は、能力など関係なしにありのままに受け入れてくれる存在*4にだけ託す。仕事はその時々の名前で行い、名前に評価を肩代わりさせ、自分という人間存在を評価から守る。
あまりに弱いありかたかもしれませんが、私はできればこういった風に生きていきたいです。
残念ながら現実の社会はそういったことを許してはくれないこともあるでしょうが、だからこそインターネットの世界に、創作の世界に、承認と救いを求めに行くのだろうと思います。

「この岡に菜摘ます 家らな名告らさね」(万葉集)――言霊の感覚は今もありありと生きています。

*1:最近はネットゲームを始めるたびに新しい名前を考えています。

*2:初めて携帯を手に入れ、LINEを知り、そのノリでTwitterを始めるとかいう話を聞くとただただ恐ろしいと思ってしまいます(老害発言)。我々は公開インターネットと私的なメールの間に大きな壁を感じつつインターネットを知っていった訳ですが、SNSという中間的な存在が隆盛する中でインターネットを知った人々には全然違う景色が見えているのでしょう。

*3:こういう示唆のない場合が「二コラ・ブルバキ」でしょう。どうでもいいですが、「同好会」でなくて「秘密結社」というとかっこいいですね。

*4:神さま、家族、あるいは親友