『クロックワーク・プラネットI』を読んだ

クロックワーク・プラネット』原作小説をこの前ようやく見つけ*1、その第一巻を読み終えた。

素晴らしかった。私はアニメから入った口なので(恐らく)三巻までのストーリーは知っている訳だけれど、それでも泣けた。圧倒された。

あらすじは公式サイトを参照。
要するに、二人の「天才」――異常に良い耳をもつ高校生の少年と才気に満ちた時計技師の少女――を主人公とした物語である。
歯車仕掛けの設定が格好いいというのもあるのだけれど*2、この天才たちの戦いを描き方が良い。天才たちが自分の理想を貫くために、一筋縄にはいかない世界と正面から戦うのだ。


※以下ネタバレ成分が強めです。


この物語は徐々に「凡人と天才の戦い」というテーマが表に出てくる……というのはアニメ版からの知識なのだが、第一巻の時点でもそういう伏線は張られていた。マリーさんが軍に対して「邪魔だからド素人は引っ込んでろ」と言うくだりである。能力がない者は何もできない。だからマリーさんの言うことは正論ではある。だが、何もできないから恐ろしいのだ、とハルターが心の中で語っている。
羨望、嫉妬、憎悪……「ルサンチマン」という語の俗化した意味のものの力は恐ろしい。これによってマリーは苦しめられる。
平凡な人間の多い社会というものは、そういったものとうまく折り合いをつけながら回っている。たとえ天才だからと言って正論だけではいけない。相手を適宜思いやって、相手の顔を立てて、理想そのものが実現できないとしても適当に妥協することで満足する。これが大人の解決策である。

この小説は、これを否定する。
天才は妥協せず自らの力の全部を以て信念を貫き夢を実現せよ。苦悩の末マリーが至るのは、そういった、ある種子供じみた結論である。
マリーは子供じみたと自覚しつつも、子供だからいいじゃないかというのである。


私がアニメを全話見て抱いた感想は、「面白かったけれど、ものすごいテロリズム礼賛アニメだ……」というものだったのだけれど、原作小説は一巻の時点でそれをずばり語っていて笑ってしまった。

 首をかしげたナオトに、マリーはにやりとして、
「理想を追求するのに最も都合のいい立場って何だかわかる?」
 ナオトは首を振る。
「いいや」
「それはね――テロリストよ」
 にっこりと危険な笑顔で、マリーは言った。

榎宮祐・暇奈椿『クロックワーク・プラネットI』(講談社ラノベ文庫)356ページより)

現状維持的で薄汚い社会に抗って理想を具現化しようとするならば、着く果てがテロリストなのは妥当なのだけれど、ここまで断言してくれると清々しいものである。
これを是としてしまうのは、私が子供っぽいからなのだろうか。

そういえばここまで私はマリー目線でしかものを語っていない。それはやはりマリーに感情移入して読んでいるからだろう。あとがきに、二人の共著者で思い描く天才の形が違った、という話が書いてある。榎宮さんのものがナオトで、暇奈さんのものがマリーらしい。所謂「天才」と「秀才」の差、先天的なものがすべてかそうでないかといったところの差異である。 私は「ギフテッド」という言葉が嫌いだ。この単語がルサンチマンの塊に見えるからだ。人は自分の理解できないものにラベルを付け、自分と違うものとして扱い、そうなれない自分を慰める。それが虚しく思えてならない。だから私は…努力家であるだろうマリーを応援してしまうのだろうか。……よくわからなくなってきた。

何はともあれ、天才たちが困難を打破する姿は格好いいし、熱くなるのである。それで十分かもしれない。

あとリューズさんマジリューズ。うん。
頷くシーン最高。作者たちが「萌え」というものを生み出す魔術師に思える。
リューズの口上もいちいちとても良い。

媒体の問題でアニメにはなかった登場人物の背景とか心理の描写が小説にはあるので、キャラの見方を結構変えてくれた。そういう意味で、アニメを見た方にもおすすめ。若干手に入りづらい嫌いがあるが……*3



――感動をうまく伝えられなくてもどかしいけれど、久々に熱中して読める面白いラノベに巡り合えたな、という話でした。

*1:京都駅のイオンモールの中の大垣書店にあった。とりあえず1、2巻を買った。

*2:私がアニメを見た理由は主にこれである。

*3:微妙に古いラノベ、微妙に手に入りづらくて難しい。