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少女達の笑顔とともに (劇場版ガルパンの感想)

先程ガルパンの映画を観てきました。二度目です。
以降、余韻に浸りつつそれについての感慨を綴ります。
思い浮かんだことを散発的に書いていくのでまとまりがないことはご容赦を。
ネタバレしかないのでまだ観ていない人は即閉じて下さい。そして映画館に行くと良いと思います。



















↓ ↓ ↓




































なんでしょうね。始終泣いていました。
始終というのは最初のエキシビジョンマッチのところからエンディングの直前までです。
一度観たから知っているので泣くこともないかなとは思っていたのですが、一回目はそこまででもなかった大洗市街戦から感極まっていました。
「先行して下さい、重量差があるから大丈夫」ここですね。
最初は頼りなかった大洗チームのみんなが、今やみほ隊長の指示を信頼し、迷いなく果敢にゆくのです。
相手の戦車が進んでいく中に突っ込んで止める、そんなことはそうでなければできないのです。
それはまた、知波単学園との対比で際立ちます。
ともに時間を過ごし、経験の中から彼らは成長するのです*1
それは戦車道に関わる皆にいえること。敵や味方の差異はなく。
次に成長の姿を見せてくれるのは知波単学園の皆でしょう。観ていると、そういう予感に襲われます。
実際はカチューシャや風紀委員達、桃ちゃんをはじめとして、たくさんのキャラクターが今までと違う姿を見せてくれて、なにか嬉しいといった気持ちを感じさせてくれるのですが。


ちょっと本筋とは関係ない話かも知れませんが、待機場所になっていた学校には、見覚えがありました。というのも、『神様ドォルズ』というアニメのエンドカードとして毎回出てきた小学校の跡地です。あのときのエンドカードには「茨城県大子町の協力を得て取材しています」とか書いてあった気がします。当時は東日本大震災の直後だったこともあって祈りの文も添えられていた気がします。今回の映画でも取材協力の欄に大子町の名前があったので間違えはないと思います。
大子町には袋田の滝を見に一度行ったことがあるのですが、そういえばあの学校を見る機会はありませんでした。けれど、明らかにあそこは海が見えるような場所ではないのです。なのにあそこを改変してまで舞台としたのは、疎開のようなイメージをもたせるため、であるような気がします。……いや、こういう憶測はよくないですね。そうではなく、私はそんな印象を抱きました、こういうべきでしょう。
少し郷愁を与えるような建物で、しかし、そこは仮住まいであっていつかは帰るところ、そう見えたのです。……本筋に関係ありましたね。


さてさてこの映画、やりたかったことをやってくれたんだなぁと、それは一度目にみたときに感じました。
オールスターで協力して闘う、うん、観たかったことです。いかにも劇場版じゃあないですか。
敵は文科省でしたね。いい悪役でした。なぜそんなにも学園艦を潰したいんだ。どうでもいいですけど、私のいる大学では最近、当局と学生団体が取り交わした「確約書」を当局が無効として一方的に破棄しようとした件なんてのがありました。だから確約書で大丈夫か? なんて心の中でツッコんでみたりもしていましたが、まあそんなこんなで「学生自治」なんてことが頭の中に浮かんだりもしました。そこにくると、高校生のもつ力の微妙な加減に思いが至りました。中学生ほどに無力で、怒りを暴力とかに訴えなくてはいけないほどではない。分別もある。かといって大学生みたいに徹底抗戦を言って真正面から立ち向かえるほどの力はない。その微妙な力の中で、繫がりを頼って、味方を少しずつ増やしていき、それで精一杯あがくのです。そこに裏はありません。ただ純粋な、願うところへの道を切り開こうとする熱意です。


本編にはたまにロシア語で喋っているところがありましたね。ロシア語を大学で勉強したために少しだけ分かるところがあったりして面白かったです。が、単に声優ネタだと思っていたのでまさか話に関わってくるとは思っていませんでした。今回はカチューシャにスポットが当てられていて少し不意打ちのようなところがありました。是認してくれるだけの仲間をもっていたカチューシャが、まほに諭され、部下たちが命令を聞かずに自分を守ろうとする場面に遭い、今までと同じではだめだと感じる。

私は群像劇が好きです。登場人物それぞれに物語がある、そういうものが好きです。
物語は得てしてひとつの用意された結末に収束する為に準備されます。それはこのガルパンの世界でもそうでしょう。あらゆることは都合良く運んでいるのでしょう。
しかし、その中で、それぞれの人物が、それぞれの意志を持って、直接本筋に関係のないことをして、それぞれが成長して、それがまとまった結果として物語としての結末が訪れる。人物は単なる物語の予定調和の奉仕者ではなく、生きている。それが好きなのです。……メタな話になってしまいました。実際映画を観ているときはそんなことを考える暇もなく引き込まれて浸りこんでいるのですが。


そろそろ最後にしましょうか。最後に……そう、今回二回目を観ていて、ラストシーンで、ふと平和っていいな、なんて思いました。別に政治的な話をしたい訳ではありません。国際交流(……ではないのですが擬似的にそうなっています)で、さまざまな国の人たちがともに笑い合う。最後に戦闘不能になった戦車がひきあげるとき、もともとは違う高校だった生徒達が同じ車両にのって笑って話し合っていたのです。そもそも、こんな戦車の道、考えてみたら戦争のための道具から発展していたものなのです。それをもう昔話としてみて、たとえば203高地にしろ戦争映画のことにしろ、かつての戦争を今の武道、スポーツの教訓として用いることができている。その世界は戦争などはるか昔の記録としてしか存在しない世界だけなのです。その冗談っぽさが、今の自分の周りの世界への感慨と重なって、思われた、涙を流したあとの爽やかさの中、そんな物思いをしていました。人を泣かせて何か物思いをさせる映画は凄いといつも思っています。

やっぱり、――これは一度目に観たあとも思ったのですが――こんなものを作りたい、それは映画でなくてもいいのですが、こんな思い、体験をさせられるようなものを作りたい、そう思いました。憧れ、なんでしょうかね。映画を観たあとはいつもこう感傷的(?)になってしまいます。


――以上です。

*1:私はたまに「彼」を性別関係無しの一般の三人称代名詞として使います。なんとなく語呂が良いのと『舞姫』が好きなので