「ポリコレ」についての雑感

社会を覆い尽くす「ポリコレ」の動きにものすごく違和感を覚えるのだが、かといってまともに論理だててブログ記事を書けるかといえばそんなこともなさそうなので、とりあえず酒の勢いで思うところを書き留めておく。要するにぜんぶただの気持ちである。


  • 「他者の行為を制限するためにはかなり強い理由が必要」という自由主義的(?)価値観がまず根底にあるのだと思う。
  • 加えて価値相対主義的な価値観から「誰かが不快に思うから」といった理由での制限は絶対に許したくない。
  • 「差別的表現だけ規制すれば良い」というのも恐ろしい。「差別」「低俗」そういったものは一体誰が決めるのだろう?
  • 権力への不信というか、社会というものへの不信というか。
  • 表現の「原理的な」自由を求めたいところだが、それが不可能であることは分かっている。ヘイトスピーチ禁止法を持ち出さずとも、名誉毀損の禁止の例がある。私は名誉毀損的表現も許してはどうかと思うところだが、それならばテロはどうか、圧制者を殺害することは立派な表現行為ではないか? などといくらでも考えられてしまう。表現の自由(に限らずあらゆる人権)は、社会がうまく回るように誰かが作った制度に過ぎない。そこを論理でどうこうすることはできない。多数決だけが(あるいは権力だけが)基準である。
  • ということで、こういった問題について語るときは論理ではなく感情を刺激するしかないのだろう。民主主義とは反知性の上に立つ営みである。



  • 「言い換え」とされる語の多くが婉曲的なものとなっていて、物事の本質を摑みにくくしていくように思われる*1
  • これはポリコレではないが「財閥」と同じものを「ホールディングス」と言う類。
  • でも、これについては「優性・劣性」→「顕性・潜性」というような、わかりやすくなったなと思えるものもある。
  • 私に多分に懐古趣味的なところがあり、言葉を安易に殺すことによって時間的な断絶が生まれてしまうことを恐れている節がある。旧字旧仮名の問題に近い。新かなづかいに反対した福田恆存はその理由の一つに「一般人が普通に古典に触れるのを難しくする」を挙げていたけれど、それと同じ。古めの文章を呼んでいると今では怒られるような表現がいくらでもでてくるが、今の子供(私も含む)はいちいち辞書を引かないと読むことができない。
  • 言葉の時間的連続性を私は愛する。「あかつき」という語を書く時、「鶏鳴あかとき」と書かれた万葉集の歌の風景を想像できる。同様に「主人」という言葉には、歴史上幾多の女性の思いが凝縮している。それを現代がどう評価しようが、かつてあった事実は変わることがない。それはどんな卑語であっても変わらない。言葉を通して人の歴史が伝わってくるのだ。言葉を殺すことで嫌な歴史を忘れようとするのならば、それには断固として反対する。
  • 古典文学の文庫本の奥付近くには決まって「この作品には現在の観点からして不適切と思われる表現が散見されますが、当時の時代背景と作者が故人であることを鑑みましてそのままとさせていただきました」などとある。場合によっては「差別的意図はなく」などと注釈されていることもある。これは必要なのだろうか。
  • 昔はその言葉が普通であったから筆者に差別的意図はなかった、そういう場合はまあ良い。では(現代からみて)差別的意図とともに使われている(ように見える)場合はどうか。リルケは『マルテの手記』でパリの汚穢、不安を描写するうちの一節で、病気の老人の奇妙な振る舞いを描いている。詩人が自分のうちにある「不快」「嫌悪」の感情を率直に文章に起こすことは許されないのだろうか。
  • 上の疑問は「人は社会の中で生きる中で自分の気持を率直に表してはいけないのか」ということとほぼ同値である。そういわれると、まあ叩かれるよねという気持ちになる。しかし、言葉狩りの問題は、思考の道具である言葉自体を制限することで、そういった感情を表に出すことだけではなく考えることすら禁じるというところの恐ろしさにあるのではないか。
  • 『一九八四年』の世界……
  • 生存戦略としての多様性を推したい身としては、「誰もが差別的なこと(あるいは現代において禁じられていること)を考えられない」世界は嫌である。
  • 現代は絶対ではない。時代とともに必ずしも人々の考えが洗練されていっているとも限らない。……という進歩主義に対しての反対がある。



  • ポリコレと言われる運動が極めて不寛容に見えてしまう。正義や啓蒙の名の下に、弱者を迫害しているのではないか。
  • というより、社会への同調圧力への反発を感じるのであろうか。「差別はいけないことだ。あなたも差別はいけないと思うよね? いけないと思わない? それでは社会はあなたを受け入れない」。
  • 小坂井敏晶の次の記述にはとても共感できる:

 ところで社会には規範から逸脱する者が必ず存在する。多様な価値観の中で葛藤が生まれ、異質な意見がぶつかり合う中から新しい価値観が導かれる。もし同じ規範を全員が守るならば社会は変化しえず、このような停滞する社会は歴史を持ちえない。
 社会規範からの逸脱が怒りや悲しみの感情的反応を引き起こす、これが犯罪と呼ばれる現象の正体だ。言い換えるならば、定義からして犯罪のない社会はありえない。どんなに市民が努力をしても、どのような政策や法体系を採用しても、どれだけ警察力を強化しても犯罪はなくならない。犯罪は多様性の同意語だからだ。
 各社会の構造に応じて逸脱許容度は異なる。しかし逸脱は必ず生ずるし、また逸脱に対する抑止力も同時に機能する。例えば中央権力が強く作用し、均一度が高い社会であればあるほど、ほんの小さな差異に対しても強い拘束力が働く。したがって多様性が客観的に減少し、逸脱行為が希になっても、社会に生きる構成員の主観的次元にとっては、その小さな逸脱が社会秩序に対する大きな反逆と映る。

  • 現代はここに描かれた「均一度の高い、小さな逸脱を許さない社会」にますます向かっているように感じられる。「多様性」を掲げながらなんたる皮肉か。ディストピアへと一直線。



  • 「政治的な正しさ」。私もまた、排斥されがちな属性をもっている*2。だが、私が、人が、望むべきはそれを「正しい」と認められることなのだろうか。例えばかつて悪いことだった同性愛を正しいことに変えることなのだろうか。そして同性愛を悪いという人間を悪いと言って排斥することなのだろうか。同じく悪いこととされてきた別の性的嗜好との間に壁を作ることなのだろうか*3。それは新たに社会に分断と憎悪を生み出すことではないのか。
  • 私達は「正しく」生きなくてはならないのだろうか。べつに「悪い」と言われ続けてもいい。悪くてもいいから排斥したり治療・教化したりせず生暖かく見守ってそのまま生きさせてくれること、それを私は望みたい。広義の犯罪者に優しい世界であってほしい。
  • 私は正しく生きられるほど強くないから。

*1:本質とは……

*2:もちろん、それは誰でも。

*3:LGBTPZNという意地悪で面白い問いかけがある。